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盛り付けデザイナー
飯野登起子様
飯野登起子様のご紹介
盛り付けデザイナー
多摩美術⼤学デザイン科グラフィックデザイン専攻科卒業後、 グラフィックデザイナーの粟津潔⽒のアシスタントを務める。 ⾃宅にて、盛り付けデザインやスタイリングを学ぶ持ち寄り形式の 料理研究会や招待制の食事会「green⾷堂」をそれぞれ100回近く主催。
撮影時のスタイリングや同時に撮影も⾏うほか、企業へのフードの 盛り付けデザインやデパートのディスプレイ、⽇本各地の⾷の デザインなど様々なプロジェクトを⼿掛ける。
公式サイト
https://tokikoiino.jp/

飯野様にとって「食」とは
「経験の中から自然に生まれてきた大切な時間」

左:井上祐子様(インタビュアー)
右:飯野登起子様
(以下敬称略)

井上:飯野先生には「器好き」(器への盛り付けを楽しみ愛でる会)にて定期的に「器と食」についてセンスをご教授いただいています。全国を飛び回る中、本日はお時間をいただきありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。
早速ですが。いろいろな思いがあると思いますが、先生にとっての「食」とは?
飯野:盛り付けデザイナーという仕事をしていますが、食の分野から入ったわけではなく、美術大学のデザイン科卒業後、グラフィックデザイナーの先生のアシスタントをし、あくまでもデザイン視点から入っています。
料理や食材、その他の素材を「みせる」ことに主眼をおいています。みせるという漢字は私の場合「魅」の字を使いますが、グラフィックデザインを勉強してきたことが、結婚して家族を持つことで、食が身近になり紙の上のデザインから自然にお皿の上のデザインに変わっていきました。
その後、子どもも3人授かり、子育ても忙しかったのと、主人の両親や姉家族との大家族の中で13年過ごしてきましたので、それは慌ただしい毎日でした。
そして26年ぐらい前にですが現在の大田区の家に越してきて初めて核家族になりました。
子ども達が小学生や幼稚園になっていたので、毎日の「食」に対して、少しずつゆとりを持って考えられるようになりました。そして「食時間」とは家族や人が集まる時間として、とても大切だと感じるようになっていきました。
井上:紙の上からお皿の上のデザインに変わるという表現がまた素敵ですね。
飯野:ありがとうございます。毎日の「食」の時間の大切さから紙から自然にお皿のデザインとなっていきました。
また並行してデパートのディスプレイやスーパーマーケットの青果のコンサルティングで「魅せる」という仕事を携わるようにもなりました。

井上:大家族の時の義理のお母様がお食事を整えていたころの生活と、核家族になってからの食事に向き合う変化はありましたか?
飯野:結婚後、目黒の下町に大家族で住んでいました。
私は鎌倉の核家族で生まれ育ち、母が日本刺繍のアーティストでもあったので、大きく環境が異なりました。義理の母は料理上手で下町のお母ちゃんというような感じ、例えばお祝い事であれば赤飯を炊く、お彼岸であれば、おはぎを作る。そして必ずご近所に配るような、そんな義母でした。
その当時、主人は鈑金店の三代目を継いでいて、工場の職人や家族の食事もほぼ全部、義母がやってくれていました。私は側に立ち、洗い物を務めました。そして結婚14年目にして今の家に越し、初めて自分のキッチンを持ち、自分で一からメニューを考えて買い物にも行けて料理を楽しむ経験を持ちました。引越でお世話になった友人達を家に呼んで、それこそ「おうちパーティー」をほぼ毎週末開催。
そこには美術大学でデザインを勉強してきたことが、自然に活きて、お客様がいらっしゃる時に、器のことを考えたり、テーブルのスタイリングを考えたりと、今から比べると稚拙なレベルですが、架空のおもてなし食堂「green食堂」を100回ぐらい開店しました。
外食ではなくて、家に来ていただいて、ご飯を一緒に食べるという時間をとても大切に感じました。またご来店下さった方には必ず感想を書いていただき、料理画像とともにファイルとして残しました。
そして同時期、毎月一度テーマを決めて「料理研究会」も主催。
「料理研究会」と言っても持ち寄り形式のポットラックパーティーのようで器を選んで最後に私がテーブルスタイリングと、レベルは異なりますが今と同じようなことを繰り返し、こちらも100回以上続きました。
井上:器についても、一つ一つの思いを込めた本というかメモを残すということもあるとお聞きました。
飯野:はい。そちらに並ぶのは先週行ってきた沖縄の器達で、自分で購入してきたものですが、仕事柄いただいたりする器達もどんどん増えていくので、息子たち二人に、この器はどこで出会って、どんな作り手の作品か、明記して残した方がよいと思って「Utsuwa Notes」というのを綴るようになりました。
井上:素敵です!その「green食堂」のノートもあわせたら、本当に先生の本が一冊できるくらい歴史がありますね。
飯野:ありがとうございます。
井上:先生の食に対する思いとか、おもてなしをするという優しさが「食」という言葉の一つにつまっていると感じましたが、一言で「食」という言葉を先生が表すとしたら何になりますか?
飯野:「おいしい」かな。どんなに素敵な器を選んで美しくに盛り付けたとしても、それを一緒に食べる人に「おいしい」と感じてもらうことが一番大切だと思うので。


井上:現在のお仕事をされるまでの道のりは?
飯野:多摩美術大学デザイン科グラフィックデザイン専攻を卒業していますが、後半どちらかというと、アートへ移行し、現代美術のコンペティションに出品し入選し、デザインというよりは抽象画を水彩や色鉛筆で描き、何度か個展も開催しました。
デザイン科を出れば、デザイン事務所等に入るのが王道ですが、私は芸大の大学院を受験(落ちましたが)ちょうど多摩美に講演にいらしたデザイナーの大御所の粟津潔さんという方がいらっしゃり、先生の講演を聞いて、すごく感動しました。
この先生、素敵だなと思って、図々しく自分がその頃書いていた抽象画数点を持参して先生のアトリエへ伺い、見てもらいました。先生はアシスタントを一人しかつけない方でしたが、たまたま当時のアシスタントが独立するということで、アシスタントが空くことになり、私が後釜で入れることになりました。
ですので、この盛り付けデザイナーという仕事の前はグラフィックデザイナーの先生のアシスタントとして勉強させていただいていました。
その後、結婚、私の世代だと結婚イコール仕事を辞めるという時代でした。本当は先生のもとで仕事をずっと続けたかったのですが、割合すぐに長男を授かったので臨月まで先生のところに通い、退職しました。
それから世間でいう専業主婦になりました。実は私は専業主婦という言葉があまり好きではないのです。専業主婦ほど素晴らしく大変な仕事はないと思うので「専業お母さん」と言っています。専業お母さんを20年間やって、その間は空いた時間に小さな絵を描いたりとか、長男が赤ちゃんの時に版画のコンペで賞をいただいたり、紙の上のデザインを細々と、仕事ではなく、自分の続けていけるものの一つとしてやっていました。
井上:子育てをされて、お母さんっていうお仕事をされながらも、やっぱりご自身のその夢というか、楽しみという意味で続けてこられたのでしょうか?
飯野:いや、夢というか、何かを少しでも続けたいっていう葛藤ですよね。このまま辞めて、専業のお母さんになることは、どちらかというともう少し楽だったかもしれない。
せっかく、2年浪人して大学に入って、何か少しでも自分しかできないことを模索しながらコツコツ続けられればいいなと思ってやっていました。
井上:私も一つのところに収まるのが苦手というか、何かを常にやっていたいという性分ですが、先生も何か一つのことというよりも、今やられていることの他に、プラスで何か進めていこうとか、次はこういう目標があるとか、常にお持ちになりますか。
飯野:わりとそれは掲げるようにしています。あとは、最近では書くようにしています。大谷選手ではないですけど、毎月必ず表を作って書いています。
表の真ん中に最新の目標を書いて、毎月その真ん中が少しずつ変わるので、囲むものも変わり、書くことは大切かなと思って書いていています。

井上:全てが先生にとって大切なお仕事だと思いますが、このお仕事がすごく印象深かったなというものはありますか?
飯野:この間、沖縄に行った時のことですが始発便で行って、たった3泊4日でしたがかなり動き周り、現地で車も出して下さり、コーディネートして下さった女性が息子の年齢より少し上くらい、そういう若い方々と対等に一緒に仕事をさせていただけることはすごくありがたいことと感じています。
その沖縄でお世話になった女性や浦社長(前回の「食と人」参照)との出会いもそうですが、「自由大学」での講義がきっかけでした。自由大学で10年以上「おうちパーティー学」や「おいしい盛り付け学」という講義をやらせていただいたことで多くの方々と出会うことができました。
自由大学は、講義を作るためのプランニングコンテストというのが定期的にあって、自分のスペシャリティを講義化したいという、プレゼンテーションをする日があり、13年前にそのコンテストに「盛り付けデザイン学」というテーマで参加しました。
優勝は出来ませんでしたが、何かできないかなと必死に模索していた時だったので自由大学の運営スタッフ御二方に相談にのってもらおうと「green食堂」に招待しました。何気なく普通にやっていたことでしたが、その来てくれたお二人が「これこそ飯野さんのスペシャリティですね」と言って下さり、人を呼んでお家でおもてなしすること「おうちパーティー学」をやりましょうと言って下さり初開講したのが2011年11月でした。
(「おうちパーティー学」は24期まで続き、現在はコロナ禍の影響もありお休みしています。)
卒業生の男性が、盛り付けにもっと特化した講義を作ってほしいとリクエストしてくれたことから「おいしい盛り付け学」が生まれました。そして尾道でも講義をやらせていただき、そちらへも10年通わせていただいている中で、現地でコーディネートしてくれていた女性に、9年前「1、2泊延泊できればお隣の島根県に器が生まれる素晴らしい場所があるので、そちらに連れていきますよ」と言ってもらったことから島根県の歴史ある大きな窯元へのご縁がつながって、それからお仕事をいただき、窯元を巡る旅講義にまで発展しました。
その窯元の代表は国内の有名な窯元と繋がられていらっしゃるので、3年前の大分県の小鹿田焼の窯元や今回の沖縄の読谷村の窯元を快くご紹介、沖縄の北窯は4人の親方が33年前に作った窯元ですが、その親方の1人の御長男を紹介下さいました。当日、羽田から始発便で那覇へ、北窯には10時半くらいには到着。
親方と息子さんの2人が待っていて下さり、工房の案内から始まり、作品を作っている手を見せていただいたり、触らせていただいたり、話もたくさん伺えました。作ってらっしゃる方にお会いできると、器に対する盛り付けへの想いも一段と深まります。
いいなと思った陶芸家や窯元が東京で展示会があると必ず在廊日に行くようにしています。会って話をして、好きな器があれば分けていただいて、盛り付けて写真を撮っていくという流れ、今後も続けていきます。
井上:いろいろな目標がある中で、最終的に来年の初めにこの目標を持っていきたいというのは何かありますか。
飯野:最近特に「民藝」とは何かということを考えていて、用の美、 使う事の美しさ、民藝と言われる分野の窯元や作り手の方々の器を魅せていく第一人者になりたいです。
器を作っている人、売っている人、使う人は沢山いらっしゃるけど、そこに盛り付けて魅せて写真を撮って残していく人は多分いないと思うので、納得のいく盛り付けデザインを一枚でも多く残していきたいと思っています。
また料理撮影カメラマンではないので、器のストーリーを見せつつ、器も美しく活きてくる盛り付けプラス撮影というものを極めていきたいです。
井上:「登りながら、いろいろなことを乗り越えていく」というお話をお聞きして、先生のお名前である「登起子」という漢字がより深く印象的に映りました。
きらきら輝く先生の素敵なお話をありがとうございました。
井上祐子様には、各業界の方々の『食』やその人の人物像にフォーカスするインタビュー企画のMCとしてご協力いただきます。今後もお楽しみに!
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